
現在、関西で経営コンサルタント業を営む中村誠さんは、今から約10年前(2015年)に経営していたダンボール会社を廃業している。従業員10名、年間売上約1億2,000万円。赤字経営のなか、自主的に会社を終えた形だ。廃業に至った背景・苦労や、廃業後のキャリアについて話をうかがった。
廃業に至った背景
バブルが崩壊。業界再編の大渦に翻弄され・・・

ダンボールは地場産業の一つで、地域に根ざした零細企業が多い業界なんです。と言うのも、4トントラックいっぱいにダンボールを積んでも売り上げは10万円あるかないか。
1個200円とか150円の世界ですから、遠方から運ぶと運送費がかかり採算が合わない。だから各地域に小規模事業者が点在しているんですね。
そんな業界で、僕は1990年10月にダンボールの製造会社を立ち上げました。大手製紙会社から仕入れた原紙でダンボールに加工、梱包資材としてメーカーへ納入したり、商社経由で販売するビジネスを行っていました。
創業から10年後、業界に大きな変化が
2000年ごろから大手製紙会社が市場寡占に乗り出し、業界の再編が始まりました。大手が加工もまかなう一貫生産を開始し、小規模事業者を傘下に入れて市場を独占していきました。
例えばうちの仕入れ値が150円なら、大手は「仕入れ値を100円にできますよ」と。しかも自社のグループ会社には80円で仕入れさせて、100円で売らせるわけです。
大手がダンボールまで作るようになれば、従業員が10人足らずのうちのような会社は勝てるわけがない。
「一刻も早く違う仕事に切り替えなければ」という思いがずっとありましたが、得意先からは絶えず注文が来るし、従業員もいましたので、すぐに会社をやめることはできませんでした。

1990年はバブルが崩壊した年でもありました。当時、信用金庫の営業職だった中村さんは日本経済の悪化を予測していたものの、「それでもやっていける」と開業にふみきられました。
廃業を決意した決定打
事業の将来を案じながらも、業界での生き残りを日々模索し続けました。
ある時は製品に付加価値をつけようと、ダンボールに精密なビジュアルが印刷できる設備を導入しました。例えば、ディスカウントスーパー向けに、ディスプレイ用の外箱として使えるように。
しかし高付加価値の分野にも大手が参入し、ロットの大きさや価格面で不利になっていきました。このままではどうにもならないと考え、徐々に事業を縮小し、いつでも辞められる体制を作ろうとしていました。
加えてメインの仕入れ先に大手の資本提携が入ったことで、これまで通りの仕入れが困難になったことが決定打となり、法的整理を決断しました。



中村さんは約10年にわたり異業種への転換や高付加価値化を模索し、最後の2年ほどは、受注や設備、従業員数を少しずつ減らしながら、会社を終える体制を整えていました。
しかし売上を減らしても固定費を同じ割合で減らすことは難しく、資金繰りはかえって厳しくなっていきました。このまま続ければ債務がさらに増えると考え、損失が膨らむ前に法的整理へ進むことを決断されました。





